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    彼は近来今日ほど熱心に注意深く患者を診たことはなかつた。今までは単に顔見知りだといふにすぎなかつた高間道平といふ一介の老人、しなびた、日焼けのした肉体を、たゞそれだけでない、ふしぎと一脈のつながりあるものとして見た。それは又、この紅黒い、むくむくした房一にもつながつているものだつた。そのどこから来たとも知れない、ぐつと身体を近づけたやうな親しさを、今、練吉は隣りを歩いている房一に感じていた。

    「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」

    「いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ」

    答へながら、彼は紅くなつていた。

    それはさうだ、永いことにちがひない、と房一はゆつくりと歩きつゞけた。多分、彼は彼で、自分のこれからの生涯を、その計りがたく、茫漠とした行手を見ていたのだらう。

    といふやうな声を出して、彼は満足と緊張とのためにあの調子外れな表情になつて、撓しなつた竿をしつかりと引きつけはじめた。

    ――もともと、練吉は房一から対診を頼まれたことさへ少からず意外だつた。これが若し、自分の場合だつたら、それは弱味を見せるといふことだつた。彼はまだ、房一に対診を頼むやうなことはつひぞ考へたことはなかつたし、これから先だつてそんなことを考へつきはしないだらうと云ふより、練吉には漠然と、房一を自分と同じ医者だと見る気にはいまだになれなかつたのである。

    「ふん」

    それを今又さつぱりとやつてしまつたのだ。髯のなくなつた彼の顔は、ずつと前のそれに逆戻りはしないで、病後の面変りも手つだつて、その円つこい縮ちゞかんだ輪郭が何かしら小さく、愛くるしげに見えた。

    ――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」

    ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出いでになりますと尋ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことはなかった。

    「誰?相沢の知吉さんかね」

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