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盛子は急に思ひ出して不服さうな声を出した。だが、それは房一に向つて甘えながら不服を云つているやうな調子を含んでいた。
房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。
今度帰郷してから庄谷に会ふのは今日が始めてだが、房一のことは庄谷も知り抜いている筈なので、彼の方から祝ひの言葉の一つ位はかけてくれさうな気がしていたのに、房一はあてが外れたやうに感じて、少なからず手持無沙汰だつた。だが、庄谷は知らないどころではなかつた。たゞ彼には房一が医者になつたことが何となく気に喰はないのである。庄谷の眼からすれば、以前からさう手軽るに親類顔をしてもらひたくないと思つていた家の薄汚い息子でしかない房一が、今突然医者として現はれて来たつて、それを認める気にはなれなかつた。この善良で小柄な、小柄なくせに横柄な男は、頭のてつぺんから足のさきまで河原町の者だつた。彼はこの町に生れて、家業である雑貨店を継いだ。それからもう何十年、店の入口の障子は硝子戸に変り、商品もランプの代りに電球を置くやうになつた。だが、いつたいそれがどういふ変化だと云ふのだらう。何もかも大事なことは変つてはいなかつた。もう十年来どこの家でも戸数割の納め高は同じであつた。彼の家の前を通る大抵の人は彼より少い戸数割を納めていた。だから、彼はそこで会ふ大抵の人に、「あン」と云つて一寸頭を動かせばよかつた。無遠慮にぢろぢろ通りがかりの人を眺める癖を改めなくともよかつた。それは彼のこれまでの生涯をつゞいた。これからだつて同じことだとしか思はれない。何もかもちやんと決まつていて、疑ふこともなければ、案ずることもない。だから、それに当てはまらないことが目の前に現れても、それは初めから無いに等しい。彼を支へている考へがあるとすれば、ざつとかういふ考へだつた。
「いや別に忙しいこともありませんですよ」
控へ目に坐つて、注いだ茶碗を盆の上に揃へると、
「いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ」
「あゝ、さうか。ふうん」
勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少い。そんな座敷があったとしても、それは僅わずかに二間か三間で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚だしきは三畳などという狭い部屋もある。
「もうこんなに暗くなつているのにね、何してるんでせう」
結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。
それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早ようございますの挨拶さえもする人は少い。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男はもちろん、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早ようはおろか、黙礼さえもしないのが沢山ある。こういう人たちは外国のホテルに泊って、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴あびせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑おかしくなることもある。
と、さつき目にもとまらぬ速さで腕にさはつたときと同じく、軽くすつと身をひくやうにしたかと思ふと、もう背を向けてそゝくさと葭子張りの便所に入つて行つた。――
いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつていた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つていた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にいてその云ふことを聞き、することを眺めていた。その小ぢんまりとした体躯からは傍に立つている房一を想像させるものは見られなかつたが、足の短い、肩の張つた房一の身体の特長から道平の方に目をやると、ふしぎと何かしら似ていた。それはたゞ小さくて、皺が寄つているだけだつた。
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