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    「本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ」

    房一は酒が不得手だつた。ところが、相沢も家業に似合はず呑めない口と見えて、二人の間には手もつけないまゝで生温くなつた銚子が二三本も置かれていた。こゝでも房一はもう会ふ人ごとに聞かれてうんざりしている医者となるまでの経歴を、相沢の問ひに答へてぽつりぽつり話さねばならなかつた。

    と、無邪気に、呆あきれたやうに云つた。

    広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。

    徳次は房一がそれなり立去つて行つたものとばかり思ひこんだ。だからおれは知らん振りをしたかつたんだ、こつちでやきもきしても先方では毛ほども思つてやしないんだ。ちよつと頭を下げる、今日は、はい左様なら、だ。畜生め。――と、徳次は相手がちよつと自転車から降りただけでもうすつかり忘れてしまふところだつたこれまでの心外さをもう一度よび戻さうとつとめながら、口惜しさうに、半ばは呆然として房一の行つた方を眺めていた。

    河原町の部落がそれに沿つて長く伸びているあの川は、この附近では単に吉川と呼ばれているが、町の少し上手では二つの支流を合したものとなつているので、それにも各々ちがつた名がついていたが、こゝから更に下流になると、はるか下手の河口にある町の名をとつて吉賀川となるのである。

    かりるに当って女房が挨拶に行ったら、温泉のぬるいことを例外なく念を押して、

    一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑をかしがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。

    「うん」

    だが、その不審は間もなく答へられた。房一が来た用を忘れてしばらく見恍みとれている間に、小柄な、鼠のやうに小粒な円い眼の、額の禿げ上つた男の顔が店土間からのぞいたかと思ふとすぐに下駄を突つかけて出て来た。房一が気づいた時には、その男はもう房一の真後まうしろに立つていた。黒い背広のお古にズボンだけは新しさの目立つカーキ色の乗馬用をはいて、赤銅縁の眼鏡をかけたその男は、

    最初、房一の頭の中にはペンキ塗りの清潔な外観を持つた医院が描かれていた。だが、この長たらしい築地にかこまれた家を一見するに及んで、その考へは棄てざるを得なかつた。今の大工の一言できまるまでに、何度玄関を外から眺めたことだらう。

    徳次はきまり悪げに、しかし、又あのきよろりとした眼つきにかへりながら云つた。

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