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もう一度軽く頭を下げながら、それまで馬を眺めていた房一はふりかへつて相沢を一瞥した。彼は何故だか判らぬながらに、相沢の話振りから一種不快な響きを聞き分けていた。
「有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁ゆげたのうちに、耳目鼻のなき痩法師の、ひとりほと/\と入りたるを見て、余は大いに驚き、物かげよりうかゞふうち、早々湯あみして出でゆく姿、骸骨の絵にたがふところなし。狐狸こりどもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にもいらで臥ふしぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大阪の唐物商人伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病床にせまりしかど、助け出さん人もなければ、かの尼とびいりて抱へ出しまいらせしなり。そのとき焼けたゞれたる傷にて、目は豆粒ばかりに明きて物見え、口は五分ほどあれど食ふに事足り、今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いと有難き人とおもひて、後も折ふしは人に語りいでぬ。」
「まあ、――上の町の大石さんとこ位は行つとくのもよからうが」
と、練吉が引つたくるやうにとつてしまつた。
「わしは反対だ!」
さう云ひかけた時だつた。さつきから口々に何か叫び、又しづまりかへつていた下方で突然又あの板切れの井桁積みがくづれる音がした。その異様な、ばりばりといふ音は何か鋭い速い広い浪のやうな不安をひろげた。それは偶然の不吉な暗示を与へたやうなものだつた。誰かが、ずつと先きの方で溝をとび越え、木柵にとりついた。すると、又何人かが土手を駆け登つた。めりめりと木柵を引倒す音が立つた。と思ふと、房一は突嗟とつさに身をひるがへして土手づたひにその方へ走つていた。彼は一二度傾斜で滑り、殆ど転んだかと見えたが、間もなく身体を起した時にはもうその場所に立ちはだかつていた。
「わたしはね、こいつは割れさうだなと思つたもんでね」と、笏で自分のはいている木沓を指して、
「どうぞ」
「へえ。ちよつとばかし――」
前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭せばまつて来た山合ひにぐつととつついているのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでいた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気うんきのある靄もやに包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。
「さうだね。まさか医者の家に古障子の玄関といふわけにもいくまいね」
半之丞の豪奢を極きわめたのは精々せいぜい一月ひとつきか半月はんつきだったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴くつの出来上って来た時にはもうその代だいも払えなかったそうです。下しもの話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元値もとねに買っておくんなさい。これが誰にでも穿はける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、お前まえさんの靴は仁王様におうさまの草鞋わらじも同じなんだから」と頭を下さげて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。
きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして
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