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徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れているのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つているやうに思はれた。
だが、まつすぐに話を進めよう――彼がその話を嫌がつたのは、人によつては精神の分裂を招き易い、あの二重な意識と名づけるべき鋭い意識のバネのせいだつた。読者は房一の幼時から彼の額に現れた一本の深い皺と、彼がしばしば陥る沈思の様子を記憶されているだらう。空想家ではなかつたにもせよ、彼には事態の真底を見抜く直観力があつた。恐らく誰もまだ気づいていないうちに、彼はその人の持ち上げにかゝつた所に迂散臭うさんくさいものを嗅ぎつけた。たとへ思ひがけないはずみで捲きこまれたことだつたにしても、彼は自分の中に一脈の危険さを、彼を生かすのもそれだが亡ほろぼすのもそれだ、といつた風なものを感じていた。それは別にはつきりとしたことではなかつた。が、少くとも彼の意識の穂先には微妙にふれているものだつた。
彼のかういふ復讐が完全に成功した後、又町側の子供等からの復讐が企まれた。それは夏の頃で、河では水泳ぎがはじまつていた。子供達の仲間々々によつて河もその泳ぎ場所がきめられていた。町場の者は稍上手かみての大きい岩のある淵のあたりで、房一たちの組はその下手しもての淵からゆるやかに流れ出た水が、次第に急に流れはじめる一帯の、やはり岸には大きな岩があつて、流れの中央に僅かに水面から滑めらかな背を露はしている岩があつた。そこでは水は泡こそたてなかつたがよく見ると縞のやうな流線を造つて速く流れていた。房一たちはその岩の背に匍はひ上つては水の中に滑り滑りしていた。上流では町場の者等が泳いでいたが、彼等は諜しめし合はせていつのまにか流を泳いで下り房一たちの場所に襲つて来た。意味のない叫声や、水沫や、それらが入り混じつているうち、彼等は房一の足を水中に引き、頭を押へつけにかゝつた。他の者はいつか岸辺に匍ひ上つて、遠くから房一の追ひまはされるのを心配さうに眺めていた。およそ日焼けした小さな裸体の群の中でも房一の身体がよく目立つた。岩に匍ひ上り、水に跳びこみする彼の黒い皮膚が水に濡れて日を浴びきらめいて見えた。そのうち彼は姿を消した。やがて、岸にいる者の眼には、彼がはるか下流の水面にぽつくりと頭をもたげたのが認められた。彼等はそのとき始めて歓声を上げた。そして、思ひついたやうに石を拾つて河の中の敵に投げはじめた。房一はそのとき対岸に上つていた。岸に立つて首をたれ、ぶるぶるつと身体を顫ふるはしたかと思ふと、水を吐いた。それから、上手に新しくはじまつた合戦を一瞥すると、それはまるで他人事ひとごとのやうに自分の衣物をひつかゝへて、さつさと家の方へ一人で立ち去つてしまつた。
「さうなんですよ。ですが、よく考へたもんだと思ひましたね、足もとから鳥が立つ、といふでせう、――あれとそつくりにね、かうひよいとカワラケがとび出すんですよ」
「ぜひ、さういふことに」
「おい、今高間君が来ていたんだよ」
「あゝ、高間さんの奥さん。――さうですね」
肉が部厚に盛り上つているために自然と深くできた額の横皺、稍やゝ動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出している円い確しつかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へていたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
下方であんなに急峻に眺められた山地は、今この高台盆地の周囲を低いなだらかな松山や雑木山となつて縁どり、その稜線は一種特別に冴えて、空とすぐくつついていた。奥地の方にはるかな山並みが盛り上つているほか、何も邪魔物がないことは、宛あたかもこの場所が地上にたゞ空とこゝだけしかないといふ感じを起させた。あたりは名状しがたい明さが満ちあふれていた。立木の一本一本、点在する人家の白壁や荒土の壁には、まるであたりの明るさを際立たせようとするかのやうにくつきりと濃い形がついて、それは遠くになるだけ鋭くはつきりしているやうであつた。そして、ぢつと見ていると、その黒い影は黄ばんだ山の斜面に少しづつ動いて喰ひこんでゆくやうに思はれた。
とにかく、それは遠い向ふで起つていることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
徳次は足を踏ん張つて立ち、まだそこら中を見まはしていた。房一はちらりとその顔を見たが、黙つて片づけていた。
云ひながら、ぽんと軽く下腹をたゝいてみせた。そして、微笑した、悪戯いたづらつ子のやうな目つきで、ぢつと房一の顔をのぞきこんだ。それは驚くほど巧みな打明けだつた。
半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。
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