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    「ふん。何でもありやせんよ。大方、腹でも痛かつたんだらう」

    「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和おとなしくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在ざいの者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄こづかみたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」

    「一つ着て見せたらどうです?高間さんにはきつと似合ひますよ」

    一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳くろめがちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍やや肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つていた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳かんの強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感をかんを覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つていた。

    「さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか」

    「お忘れかもしれませんが、高間道平の息子でございます。――今度、医者としてこの町へ戻りました者で――」

    この町に一体火事なんて、いつあつたらう。たしか、三年前に一度、そして去年の春さきに小火ぼやが一度、それも藁火が離納屋に燃え移つただけのことで、それだのに殆ど町中がいや近在からも山を越して人が集り、提灯ちやうちんが集り、大変な騒ぎだつた。めつたにないどころではない、他のことは忘れても、この殆ど珍重すべき火事は、そのあつた年も、場所も火元の蒼白な顔も、ありありと覚えこんでしまはれるのだつた。

    一瞬、まはりの者は皆黙つていた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めていた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。

    「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」

    廻転椅子に肥つた身体を一見窮屈さうにはめこんだまゝ、房一はその捉へにくいものを捉へようとするかのやうにぢつとして考へに耽ふけつた。回想はいろんなことに飛んだ。結婚当初の、あのはじめて我が手の中にしつかりとつかんだといふ気を起させた盛子の、靱しなやかな身体がつくり出す自然な女らしいしな、健康な溢れるやうな慾望、――口のあたりをもごもごさせる徳次、滑つこい河石、――相沢へ往診に行く途中の坂路で、ずつと上の方から自転車をぴかりと光らせながらだんだん大きく現れて来た、あの印象的な大石練吉との邂逅かいこうや、盛子の妊娠、道平の卒倒(その道平はあれから経過がよくて、今では多少不自由ながらぼつぼつ歩き出すほどになつていた)だのいふことが、その一つ一つはそれこそ手につかめるほどにはつきり目の前に浮んで来ながら、全体としてはひどく遠い前のことだつたやうにも又つい昨日のやうにも思はれるのであつた。それらのことは、房一とは切つても切れぬものとして、何かしら意味があるやうに感じられもしたが、同時に部分々々としては記憶の中で精彩を放つにすぎない互ひに独立した、単に印象の鋭いいくつもの火花のやうにも思はれた。それがあの一年といふものだつた。すべてが一年の中に過ぎて隠れこんでしまつた。これがあの「過ぎ去つた」ことだつた。しかも、過ぎ去つたといふ決定的な響きにもかゝはらず、それは何といふとりとめもない曖昧なものだらう。あらゆることが、あのつい二三ヶ月前に鬼倉と対むかひ合つた晩のことさへ、まるで他愛のない、夢の中の出来事としか思へないのであつた。しかも、相手の隈取りのやうな荒い皺の走つた顔や、静かで不気味な落ちつきと、低い力のある声などは、今でも軽い戦慄を思ひ出させるのではあつたが――。それは或る夜の突発的な情慾のやうに、何かしら後うしろめたい気持さへ感じさせた。が、それさへも過去のなだらかな手つきによつてぼかされ、平坦になり、記憶の中にいくらか異様な突起を見せているに過ぎなかつた。あれから、鬼倉とは往診の途中で一二度会つた。彼は例の荒い皺を、あの晩のやうに深く険けはしくはなく、ゆるめて、そのために一層老人臭い顔になりながら会釈ゑしやくをした。そして、一度は手にできた皮膚病を診てもらひに房一のところに来さへした。その時のことであるが、彼はふいに自分の死んだ一人息子の話をした。

    と、小谷が徳次の足に目をつけて云つた。どこで手に入れたのか、徳次は白い紙緒の藁草履をちやんとはいていた。

    根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。

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