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    房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。

    房一は永い間診察した。ひどい貧血症、食慾のないこと、動悸が打つ、野良仕事はもう三四ヶ月前からできないでいる、――

    年は五十過ぎ位、見るからに小柄な貧弱きはまる痩せつぽちだが、何となく自分の身体を大きく見せようと絶えず心を配つているらしい足の踏ん張り方をしていた。手足も、顔の皮膚もうすく日焼けがし、乾いて、骨にくつついていた。が、頭髪はそれとは反対に驚くほど真黒で、きちんと櫛目を入れて分けられ、鼻下にはやはり念入りに短く刈りこんだ漆黒の髭をはやしていた。それは何かちぐはぐな印象で、中農の地主にも見え、町役場の収入役のやうでもあり、又どこかに馬喰ばくらう臭いところもあつた。だが、一貫して現はれているのは、小柄の者がさうである場合特に目立つ、そして見る者の咽喉のあたりを痒かゆくさせるやうな、あの横柄わうへいさであつた。

    「おぢいさん。これを主人うちが着るんですよ。主人ばかりぢやない、町の戸主はみんな!それこそ、代人はできないんださうですよ。そして、御神輿おみこしの後について町中を行列して歩くんださうですよ。――まあ誰が考へ出したんでせう!さぞいゝ恰好でせう!ねえ」

    房一は先に立つて行つた。居間も座敷も畳が入れかへてあつた。だが、家具らしいものの何一つないこの大きな部屋には何かちぐはぐな乾いた空洞のやうな空気があつた。部屋の向ふには裏手の築地で四角に仕切られた庭があつた。そこにも目につくやうなものは何もなかつた。土の上に新しく削りとつた雑草の痕跡が一杯にのこつていた。その急に日向ひなたに出され、人の足に踏まれて顔をしかめたやうな土のひろがりの向ふには、低い築地とその際にたつた一本だけかなりに大きな無花果いちじゆくの樹がぼつさりと茂つていた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。

    河原の端にある高い築堤の上で、白い割烹着かつぽうぎを着た女が、口に手をあてて何か叫んでいた。

    「いや、もう御免蒙つて脱いで行かう」

    と、練吉はわざとらしく顔をしかめてみせた。

    「いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ」

    「いや、どうも。――この男は私のごく懇意な者ですが、酒癖がわるいので、まあ今夜のところは大目に見てやつて下さい」

    夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪たにが流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。

    「ジョン、降りろ」

    「いやネ、誰か赤山のことに精くわしい者はいないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」

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