このページについて
「とんでもない、わたしの持山ぢやあるまいし、こつちは間で口を利いても礦山のことは素人しろうとだし、向ふは専門家でさあね。そんな煽てにのるやうな連中ぢやないよ」
徳次は河船頭であつた。明け方早く、一帯に白い朝靄の立ちこめた川面のどこか一点にぽつんとした黒い点が現れ、しだいに大きく人の形であることが認められるやうになると、それがまるで宙に浮いたやうに思ひもよらぬ高さで突立つているのを見た人は、不審に感じながらぢつと眼をこらすだらう。間もなく、積荷で盛上つた黒い船体が見えて来ると、その上に足を踏ん張つて仁王立ちになり、太い棹をいくらか斜に構へ持つた徳次が、河原町の路上をふらついている時の、いくらか赤鼻の、きよろりとした顔とはまるで人がちがつて見えるほど、きつとした引きしまつた面持で、睨みつけるやうに前方に目を配つているのを認めるだらう。水に隠れている円つこい岩がある、さうかと思ふと、流れの加減で船がそつちに寄るといふよりは、先方からすつと近づいて来るかと見えるやうな、鼻先だけちよつぴり水面に出した、だが頑固な岩がある。こいつらを、徳次はあの長い棹で突張り退けるのだ。徳次はもうこんな岩の在りかもその性質もすつかりのみこんでいる。だが、水量が減つたり増えたりするにつれて、この岩どもは気心のしれない女よりもなほ厄介な代物になる。おまけに、広い川の中でも本流は時々気まゝに路を変へるのだ。そいつに乗つていないかぎりはいつまでたつても河口へ着きはしない。
徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
彼は今泉からドイツ兵の捕虜と聞いたとき、かつて若い単純な頭にはげしい印象を灼やきつけられた、ロシア兵達の驚くべき腕の長さ、のろい大まかな身振り、何とも解しがたい瞬時に大きく開かれたり又縮まつたりする碧い眼や唇の動き、――それらは今徳次の目の前に突然鮮明な記憶をよび起したのである。
それは言葉にするとこんな風なものであつた。
房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。
「やあ、来てますね」
そこには、ついこなひだまで足ならしのよちよち歩きをしていた筈の道平が、本家の孫息子につき添はれてではあつたが、ちやんと一人立ちになつて、ゆつくりゆつくり足を踏み出していた。病後で彼の顔は大分変つていた。その左側の半分には、まだ心持ひきつゝたやうな痕跡がのこつて、したがつて、そつち側だけの眼と唇がいくらか引つ張つたやうになつている。だが、その不自由な表情の中には何か懸命な、かうして歩いて来たことを見てもらへるといふ悦びが明かに漲みなぎつていた。
「あなたは御存知ないんですかね」
「いや、どうも。恐縮です」
その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話していた。
ごろごろする石の上を下駄ばきでは歩きにくかつた。房一は川から上つたまゝの濡草履をはいているので速い。盛子は空からになつた追鮎箱を手にして後からついて行つた。
徳次はすつかり感心したとも、又その反対ともとれる云ひ方だつた。
- 山の中の素敵な温泉飛騨高山温泉の予約なら当サイト
- 清流流れる温泉四万温泉の予約なら当サイト
- 海際のハイセンスな宿鴨川温泉の予約なら当サイト
- 日本海の夕日をmini!皆生温泉の予約なら当サイトへどうぞ