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「それに、永い間この土地をはなれていたもんですから、土地の事情にもすつかり疎うとくなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つている次第ですが――」
「ハッパさね」
と、加藤巡査は無意識に汗の滲み出た額のあたりを指でこすりながら、心配さうに大小の焚火を見やつた。彼の声はしはがれていた。
気の毒であるから、風呂はわかさなくともいいぜ、と高橋に云うが、彼も私を気の毒がっているらしく、たいておく。親切はありがたいが、気の毒がられるのも、つらい。思うように仕事ができないと、フロたきの人たちに悪いような気持になるので、かえって負担になることがあった。
聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出ていたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつていたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいている家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味していた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いていた。
「ひどい傷だねえ!」
房一はその「ごとき」といふ箇所にわざと力を入れながら、つゞいて、今夜の席に招かれたことを謝し、甚だ不本意ではあるが止むを得ぬ所用があるので途中から退席させてもらひたい、と述べた。
温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑おかしくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。
もう一度小学校の校庭まで辿り着いた時には、衣裳がくたくたになつたのと疲労し切つたのとで、行列をつくつて歩いている間に自然と現れていた共通の類似、あの正面を切つたまじめさが消え失せ、代りに日頃のそれぞれな持前が、尖つた顎だの鹿爪らしい顔つきだのいふものが今や歴然と姿を現した。まだ解散にならぬ前から気早やに冠をかなぐり取つた者もいたし、衣裳をぬぎにかゝつた者さへあつた。
――だが、作者がこんな説明をしている間ぢう、房一はそこで愚図々々と立つていたわけではなかつた。何かしらあての外れたやうな気がすると同時に、房一は漠然と庄谷の気持を見抜いた。彼はそんなことで悄気しよげるやうな性質でもなかつたので、ほんの路傍の挨拶だけで別れると、さつさと上手に歩いて行つた。
「よく来て下さいましたな。何しろ不便なところですから、途中が大変だつたでせう」
あたりには急に殺気立つた空気が感じられた。恐らく、暗やみで途惑とまどひし、右往左往したやり場のない興奮がはけ口を見出しかけたからだらう。男は、はじめの滑稽な様子にひきかへ、今案外な落ちつきと鋭い怒気を見せていた。多分、たゞならぬ空気を察したのだらう、構内ではいつのまにか焚火が消され、高張提灯も取り去られて、柵をへだてて二人の男が対峙している所にだけ一つ残つていたが、下方ではしだいに持込んで来た提灯のためにかへつて前とは逆に明さが行きわたり、土手に肩をいからして立つている男を下から照し出していた。
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