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    房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはいなかつた。

    と、誰かが大声で叫んだ。

    閑静で温泉もあるという家は売家だから住めない。貸家の方はたいがい山の上の温泉のない家で、ぜひ住んでくれないかと云ってきた空別荘も、景勝閑静な山荘であったが、温泉がなかった。

    さう声をかけながら、練吉は近眼鏡の下から切れ目をぱちぱちさせ、気安げに、眠つている道平の顔の上にのぞいた。

    老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めている農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしていたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。

    練吉は盃を口にふくみながら答へた。

    「あれですな、さういふお話をうかゞふと、貴方ほどの努力家は東京に残つて研究をつゞけられた方がよかつたかもしれませんな。よく又、こんな田舎に帰る気になりましたね」

    そこには、ついこなひだまで足ならしのよちよち歩きをしていた筈の道平が、本家の孫息子につき添はれてではあつたが、ちやんと一人立ちになつて、ゆつくりゆつくり足を踏み出していた。病後で彼の顔は大分変つていた。その左側の半分には、まだ心持ひきつゝたやうな痕跡がのこつて、したがつて、そつち側だけの眼と唇がいくらか引つ張つたやうになつている。だが、その不自由な表情の中には何か懸命な、かうして歩いて来たことを見てもらへるといふ悦びが明かに漲みなぎつていた。

    房一は苦笑した。

    「さあ、くはしいことは判りませんね」

    房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。

    「もう河原町へは当分帰る気はないんですかね。貴方にお貸したところをみると」

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