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思はず口に出かゝつたが、慌ててのみこんだ。彼の頭には今やすべてが明かになつた。土工仲間の刃傷沙汰だつた。その息づまるやうな情景が頭に閃ひらめいた。
何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしている彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つているのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つている爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫なで上げられてでもいるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つている彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでいるのを感じているやうに見えた。
宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷の一間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝がちで、きょうも宵から小雨が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床に這入ろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せに遣ると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
今や事情は一変してしまつた。かつて御ぎよし易い息子だつた練吉は、正文の常識では計りきれないやうな矛盾、我儘を次々とひき起して、何とかして押へようとかゝつている正文は殆ど息子の意のまゝになつているのだつた。
高間医院では房一の帰りが遅いので盛子が一人で気を揉んでいた。ほかでもない、房一はその日の夕方から鍵屋の法要ほふえうに案内を受けていたのである。
だが、このはてしのない遠慮深さは気持の悪いものではなかつた。
房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。
今泉は一寸いやな顔になりかけたが、
例の伯父はもう大分前から房一の気を引いてみてはいたのだが、遠縁にあたる退職官吏の娘で盛子といふのを房一の妻として撰んで待ち設けていた。
けれども、ヌルい湯に長くつかっていることは、頭を鎮静させ、時空を忘れた茫々たる無心にさそいこんでくれる。うちの湯殿には灯がないので、ほかの部屋からの光で間に合せ、かすかに光のさす湯槽では、まったく、仮睡状態になるときがあった。インシュリンや電気ショック療法のなかった一昔前の精神病院では温浴療法というものをやったそうであるし、ヌル湯の湯治場では、精神病に卓効ありとあるのが多い。それは、しかし、私の場合のように、こんなに湯の温度に同化して長い時間仮睡状態にふけることができたら、と、註釈が必要ではないかなどと考えた。
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。
ふと気づくと、玄関に人が立つていた、半シャツの男だ。瞬間、又来たな、と思つた。
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